学びの場がなぜ必要なのか?

組織コンサルタントをやっているとどこに行っても似たような場面に出会います。

自分の状況は特殊で他人にはわからない

その人は、他の人の状況を知らない場合が多いです。
関心もない。
自分だけが大変だと思っていて、この状況を放置している上はヒドイと言う。

会社で文句を言う人、下請け企業の経営者、給付金に頼る役所、発展途上国

言い分は似ているように感じられます。

これは、人間共通の『病』なのだと思っています。

経営者はアドルノのいうF指数(『権威主義的パーソナリティ』)が高い独善的な人が多いです。
高圧的で、下を抑えつけようとするので、イエスマンだけが残り、責任ある人はいなくなります。
独裁者とそれにおもねる人の共依存がおきて、一度できあがった状況は容易には変わりません。
共依存が起きているDVの家庭のように支配される側が、支配する側を操作しているからです。

これこそが私が向き合ってきた場面です。
自分でやります

これは、ある意味、無力な存在として生まれてくる人間が生得のものとしてもっている性質です。
私たちは、大人がかわいがってくれることによってのみ生きられるがゆえに、悪く言えば、いかにしてそこにつけいるかをひたすら磨いて生きてきているわけです。

イギリスをはじめとした欧米列強が植民地でとってきた愚民教育は人間の愚かな部分を利用し、助長してきたのではないかと思います。そうすれば、人々は些細な違い、損得で争って、なけなしのお金とエネルギーを消耗し、支配体制は安泰です。

王や貴族が学びの場を閉じてきたのは、知識を独占することで、富を独占するため以上に、
民衆に自立させないためだったのではないか。

だからこそ、私たちは『学ぶ』ことによって、他人を操作することを止めて、自立する必要があるのです。

一人ひとりが、科学者のように考え、自分の人生や未来の世代に責任を持たない限り、この状況は変わりません。

そのために、一人ひとりが自分で考えるようになる学びの機会が必要だ。
それをどうやったら、実現できるのか?

それゆえに学びの場が必要なのではないでしょうか?

そして、それは、学びの場をどうつくるかに、小学生も中学生も誰もが参加して語り合い、実践しあうことが有効なのではないでしょうか?

そういう場は、むしろ田舎や発展途上の国の方ができやすかったりしますね。