成功の代償

知識社会に特有の情報への移動は高い代償をともなう。それは競争にともなう心理的な圧力と精神的なストレスである。敗者がいるからこそ勝者がいる。昔の社会はそうではなかった。無産者の子は、無産者であっても敗者ではなかった。ところが知識社会では、敗者がいるだけでなく、敗者の存在は社会の罪とさえされる
心理的な圧力と精神的なストレスといえば、黒川温泉の後藤さんが発見した社会の変化でもある。企業におけるメンタルヘルスの必要性や企業からNPOへの人の流れからも実感できる。クライアント企業の若手にも顕著に見える傾向です
学校がおそるべき競争の場となっている。このような種類の競争が30年、40年という短い年月の間に発生し、かつ激化したということは、失敗に対する恐怖心が、すでに知識社会の隅々に浸透してしまったことを示している
これは、企業において極端に挑戦しなくなってきていることと符合しそうだ。ベンチャー支援やイノベーションの奨励が必要なのは、知識社会の必然ということか。野中教授はイノベーションが起きないのは分析過多による客観と考えているようだけれども、知識社会の力学を無視してはなかなか変化を起こすことは難しそうだ

しかもそのような競争のあとでは、ますます多くの成功した知識労働者、すなわち企業の管理職、大学の教員、医師たちも40代、50代にして燃えつきることになる

そのとき、できることが仕事だけであるならば問題が生ずる。したがって知識労働者たるものは若いうちに非競争的な生活とコミュニティをつくりあげておかなければならない。コミュニティでのボランティア活動、地元のオーケストラへの参加、小さな町での公職など仕事以外の関心事を育てておく必要がある。やがてそれらの関心事が、万が一にも仕事に燃えつきたとき、貢献と自己実現の場を与えてくれることになる

ニートの大量の発生は、競争を避けようとする心理の受け皿がなかったことによるのかもしれない。仕事以外の関心事に向かうことが、なんとなく敗者のような雰囲気がある。競争を避けることはそもそも戦略の本質でしょう。戦って得ることは少ない。勝っても負けてもその後には絶望が待っている。勝てば更なる戦いがあり、勝ち得たものを守るあまり視野が狭くなったり、傲慢になったりする
それよりは、戦うことなく、風や雲のように自由にそして、自分ができることで貢献する。先人の努力のおかげで、食糧生産は何十倍にもなった。工業生産もしかり。そのおかげで、労働力としての人間を必要としなくなってきている。すべての人が貴族のように生きていきうる
その鍵を握るのは「知識」であり、それを伝達する「教育」である。それを効果的に実践すれば、衣食住における安全は確保できることは戦後の韓国や台湾において証明済みである。あとは、どのようにしてアジアやアフリカ南米に「教育」を提供するかだ
世界中に「教育」がいきわたり、知識や情報を扱えるようになった時に、どんな世界が出現するのかはちょっと想像がつかない