目指していること
私が取り組んでいる、「全員が主体的に相互の強みを活かしあう創造的な組織」づくりのベルノートと「市民参加型の社会づくりを再生可能エネルギーから着手する」地域エネルギー創発ネットの関係について考えてみました。
私としては、働いている人が幸せになるのみならず、
自ら価値を創りだして、より良い社会づくりに貢献してゆくような人才を輩出してゆく組織(団体)づくりに取り組みたいと考えています。
多くの人が大企業を選ぶのは
自分自身の力に対する不信感から来る安定したいという欲求と
大企業の方が成長できるのではないかという期待と
社会に大きな影響を与えようと思ったら、大企業の方が可能性があるということがあげられるでしょう。
ただ、それは20世紀的なパラダイムだと思います。
一つひとつの会社は、お互いの顔が見える小規模組織で、全員が同じ価値観で共通の理念・ビジョンに向かって切磋琢磨する一方で、そういう小組織・個人が連携して(それこそ4人×1000社)で大企業を凌駕するインパクトを社会に与えることが可能ではないでしょうか?
大企業と小組織の関係は
原発と再生可能エネルギーの関係に似ています。
大企業が原発だとしたら、この小組織の連携は再生可能エネルギーの小発電所とスマートグリッドへの移行と考えています。
大企業も原発も、平時は効率が良いわけですが、
いざ、何かあったときに制御不能になってしまいます。
私たちは、この技術を制御するだけの人間性にはまだ至っていないのではないでしょうか?
大企業は製鉄所、造船所、自動車産業のような巨大資本を必要とする工業社会には必要だったかもしれませんが、所属する人間を幸せにするよりは、歯車として没個性化してしまう精神・文化的な殺人装置だったのではないでしょうか。
今日の国家財政を圧迫している「年金・医療・介護・生活保護」は本来は、一人ひとりが責任を持ち、一族やコミュニティで担っていた機能です。それを人々の繋がりを弱め都市に集め、工場で賃金労働する存在にするために、国家があたかも国民の為を装って、中央集権化するツールに使ったのではないでしょうか?
現実、福祉国家を始めたのは、ヒットラーですね?
究極的に私たちは自立した方が良いのではないでしょうか?
人生80年として、命尽きるまで自分の才能を磨きあげ、人々に貢献し続け、前人未到の頂きに到達しようと志すかどうかはともかく、素晴らしい人生であったと終りを迎えるために、己を頼る以外に方法があるでしょうか?
それを国や大企業が安定をちらつかせて、弱い心に忍び寄るわけです。しかし、大きな組織に埋没することで、一人ひとりは、善人であってもほんの少しの無責任が生じてしまいます。しかし、その小さな無責任が組織全体では巨大な無責任に至ります。
それが巨大な財政赤字であり、原発事故の背景にある日本の構造的な病ではないでしょうか?
大きな組織でも、参加者全員が全身全霊であたるには、まだまだ、私たちの精神は成熟していない。ゆえに、どうしても、管理統治するための仕組みが必要になります。ならば、不安でも、いや、不安だからこそ、管理が必要ない組織規模で、責任を引き受け全力をつくし貢献せざるをえない、お互いの顔が見える小組織とその小組織が連携して大きな影響力をつくりだしてゆく世の中にできないだろうか。
大企業と小組織の連携の違いは、支配するか連携するかの世界観に違いがある。一人ひとりは利己的で、自分の利益しか考えないから優秀な人間が指導監督しなければならないという人間観と利己的で自分の利益しか考えない人間でも協力しあうことが気持ちよくて、まわりまわって結局自分の利益になるということがわかれば連携しあえるという人間観か、つまり、共和制(エリートが意思決定をする)か民主制(みんなの知恵を持ち寄って決める)かの世界観。
今日の企業の多くは共和制的な運営がなされています。
社員には経営者を選ぶ権利は、入社するときにしかない。ごくごく例外的に、社長をはじめ、役員、管理職を社員の意見で決める会社もあるようだが、非常識だと思われている。企業という国家よりもはるかに小さな単位で民主的なくて、どうして国家を民主的に運営できるでしょうか。私たちの政治や組織についての常識をいかに変えられるかという挑戦なくしては、民主的な社会を実現することはできないでしょう。
そんなことに取り組もうとしているわけです。